幸福になるために

趣味なし、特技なし、貯金なし、彼氏なしの底辺女がどうにか幸福になろうとするブログ

幸福になるために、自分自身の成長を促してみた

悲しいことがあった。

この週末、友達とみんなで仮装してディズニーランドへ行ってきた。
みんなお互い写真をバシャバシャ撮り合っていて、
私もみんなに写真を撮ってもらった。

そして今日、LINE上でみんなで写真の交換をしあっていた。
私は誰の写真も撮っていなかったから、送る写真がなかった。
自分の写真だけは、友達に自分の携帯で撮ってもらっていたので
持っていたが、それ以外の写真が一枚もない。

だから何もせずただ送られてくる写真に対して「ありがとー」と言いながら
ひたすら受け取っていた。

それがよくなかった。


友達の一人が「○○の時の写真がない」と言い出した。
そして私に「持ってない?」と聞かれたので、
「私は自分の写真しか持ってないよ」と答えた。

すると別の友達が「ほかの子の写真は消したってこと?」と聞いてきた。
いやいや、そんなことしないよ!とすぐに返信したが、
つまり私は自分の写真だけ残して自分以外の人が写ってる写真はすぐに消すような人間だと思われているということだ。

とても傷ついたが、普段の自分の行動がもたらした結果なのだろうと思った。
完全に身から出た錆である。

自分はいつもそうで、「自分さえ良ければ」というスタンスで生きている。
自分のスマホの充電が心配だから友達の写真を撮ってあげないし、
「撮ってほしいならそう言えばいいのでは?」と思ってしまう。
人の気持ちを考えて行動したり、相手のことを思いやったり、
人のことを察したり、想像したりすることができない。

周りの人がいつの間にそんなことを習得していたのかわからないが、
私は本当に小さいころから大人になった今でもそれができないのだ。

そして調べてみたら、「アスペルガー症候群」という障害特性と見事に一致した。
これはこういった「人の気持ちを察せれない」といった社会性の障害だけでなく、
「言語コミュニケーション障害」「想像力障害」といった点でも一致した。

そうか、私はアスペルガー症候群なのか。
実際に診断されたわけでも何でもないが、こうやって病名がわかると安心する。

なぜなら「病気」であれば「治療法」や「対処方法」があるからだ。
これが「病気」ではなく「ただの人としての欠陥」であるなら、
その時の悲しみや苦しみは底知れない。
なぜなら「自分は人間の屑だ。人間の成りそこないだ。」と思いながら
生きていかなければいけないからだ。

ともかく私はすでに認知していた「ADHD」と今回新たに自覚した
アスペルガー症候群」という二つの病名を手に入れた。

あとは簡単だ。
ただ、障害と向き合いながら
「病気を治すのではなく、どうしたら病気を持ちながらでも
周りの人と同じように生活できるか」を考えればいい。
周りの人が無意識でもできること、それをしなくても生きていける、ということを
自分はしっかり意識しながらやっていけばいいということだ。

ちなみに「ADHD」を受容した時から、私はメモ魔になった。
人よりも「記憶の器」が小さく、物事をすぐに忘れてしまう。

その代わり自分の興味のあることや過去の出来事に関しては
めちゃくちゃ記憶力がいい。

もしかしたらそのせいで、他のことを記憶するためのキャパシティが狭くなって
しまっているのかもしれない。

だから私は仕事の時はなんでもメモをする。
1秒後にやる仕事や、まさに今からやろうとしている仕事でさえも一旦メモに書く。
そうしないと、「さ、やろう!」と思ってパソコンに向かっても
その次の瞬間に視界に別の興味のあるものが飛び込んできてしまったら
そっちに集中してしまって、今まさにやろうとしていたことを
忘れてしまうからだ。

普通の人ならメモをしなくてもいいことを、私はメモる。
こうすることで普通の人と同じように仕事をすることができる。

これが自分なりの「病名をもらい、向き合う」という方法だ。

というわけで長くなってきたが、今回は「アスペルガー症候群」と向き合うために
まずは自分をよく知らないといけない。

そもそも私は、めちゃくちゃな心配性だ。
人に対する想像力はまったくないくせに、自分に起こる危機や恐怖に対しては
尋常じゃない想像力が働いてしまう。

小学二年生の遠足の日、その日はカンカン照りで、母親が持たせてくれたアルミ製の
水筒は学校につく前に日光で熱くなってしまっていた。
私は「外がこれがけ熱くなっているのだから、中身も熱くなってしまっているのではないか」ととても心配になった。

子供だったので熱いお茶は嫌いだったし、のどが渇いたときに熱くて飲めないんじゃないか、そしたらこんな暑い中、飲み物が飲めなかったら死んじゃうんじゃないかと思った。

そして私は通学路で「足をくじいた」と嘘をついて遠足をサボろうとした。
結果、遠足には行ったし水筒の中身もちゃんと冷たくて安心したのだが
その時の強烈な不安だけは今でもトラウマのようにしっかりと覚えている。

今回のディズニーでもそうだ。
私は「スマホの充電が切れるんじゃないか」
「そしたら帰りの電車が調べられなくて困るのではないか」
「何かあったときに誰とも連絡をとれなくなってしまうんじゃないか」そういった強い不安に駆られていたから、自分のスマホをなるべく稼働させないようにしていた。

つまり私がほかの人を気遣えないのは、
常に「自分の不安から身を守るために必死だから」なのだ。

だから、ほかの人の気持ちを想像したり気遣う余裕がないのだ。

さて、ここからが本題で、じゃあ私はどうすれば他の人と同じように
社会的な生活が送れるのか?

今回だったら、ちゃんとモバイルバッテリーを持っていけばよかったのだ。
そうやって「これがあるから安心」と思えるものを備えていれば
ここまで不安になることもない。
普通の人ならそれをここまで考えなくても自然に出来るのだろうが、
私はここまで考えないとできない。

つまり、私は普段から自分が不安に思うことに対して、普通の人以上に準備して
「安心」を作っておかなければいけないのだ。
それを、意識して行っていけばいいのだ。

 

こうして私はまた少しだけ人間として成長することができた。
普通の人が普通に生活しながら体得していくことを、
自分はこうやって少しづつ頭で理解しながら得とくしていく。

普通の人と自分とのギャップをゆっくり埋めながら、
社会的な生活を送っていく。

本物のADHDアスペルガー症候群の方からは
「そんなくらいで障害名乗るな。お前のなんかただの甘えだ。一緒にするな。」
と怒られてしまうかもしれないが、
これが私が少しでも前向きに生きるための手段なのでどうかお目こぼしいただきたい。

とりあえず幸せになるために、たくさんの荷物が背負える
屈強な肉体を手に入れようと思う…。