幸福になるために

趣味なし、特技なし、貯金なし、彼氏なしの底辺女がどうにか幸福になろうとするブログ

【ブログ説明】幸福になるために、ブログを始めてみた。

没頭できる趣味もなく

自慢できる特技もなく

何かに使ったわけでもないのに貯金もなく

当然ことながら彼氏もいない


24年間ノープランでゆるっと生きてきたらこんなことになっていた、そんな女


別に自分のことを不幸だとは思わないし、十分幸せな人生だけど、なんとなくずーっとしんどい、幸せになりたい。


人はみんな幸せになるために生きてて、実際幸せになれるらしい。

カズレーザーが言ってたので間違いない。


つまりこんな私でも将来は絶対幸せになれるんということである。


だから、こんな私が幸せになるまでの軌跡を、飽きるまで書いてみようと思う。

もしかしたら明日には飽きてるかもしれないけど、それも幸せになるために必要なことなんだと思う…。


幸せになるために、彼氏が欲しい

なんだかんだ言っても、やっぱり彼氏が欲しい

どれほど仕事ができても

セクシーだと褒められても

カッコいい、綺麗だと言われても

私は彼氏が欲しい


恋愛だけが幸せじゃない

結婚することが全てじゃない

それでも私は彼氏がほしい


結婚しなくても幸せになれるこの時代に

私は彼氏が欲しい


1人の時間が好きなのに

私は彼氏が欲しい


生きているだけで幸せだと思えるのに

私は彼氏が欲しい


面白い映画も

好きな音楽も

共感できるドラマも

泣ける漫画も

新鮮なヤングコーンを茹でたときの

フサの甘みも私は知っている

なのに私は彼氏が欲しい


どうしようもなく

どうしようもないくらい


私は


私は





私は

彼氏が

欲しい


とりあえず幸せになるために

無理な恋活はしないでおこうと思う…

幸福になるために、ワクワクしない服装はしないことにしてみた

ちょうど昨年の2月28日、私はこのブログにこんな記事を掲載していた。

「幸福になるために、服辞めてみた」

 

内容はというと、「今までは仕事のために女の子らしい服装をしてきたけど、日々に潤いがなくなってきたので、改めて自分らしいファッションをしようと思う。」的なことを長々と書いているものだった。

 

ブログを読んでくださった方に謝らないといけない。

あの記事の内容は、ほとんど嘘だった。

本当に、すいません。

 

ただ、ひとつ弁論をさせてほしい。
記事を書いていたあの頃は、本気であの記事に書いていたようなことを考えていたのです。

 

あの記事を書いてから約1年たった先月の中頃。
私は急激に「服装を変えたい」と思った。

去年1年間、私がどんな服装で過ごしていたかというと…
基本、ファッションの参考はお笑い芸人のアキナ秋山さん。
NIKEのスニーカーを主軸として、ストリート系のファッションを楽しんでいた。
去年のあの記事を投稿してから1年間、春・夏・秋・冬と季節を一巡し、
また春がやってこようとしているこの2月に、私はもう毎日のコーディネートを組むことにワクワクしなくなっていた。

そう、「飽き」が来たのだ…。

思いめぐらせれば去年の2月も、それまでの「ファッションを楽しまないOL基本コーデ」に飽きたから、私はストリート系ファッションに転換したし、

その更に1年前を振り返れば2017年の2月に私はロングヘアーをベリーショートにまで短く切っている。

そう、つまり私は、服をやめるだの始めるだのそれっぽいことを言ってはいるものの、その実、ただ1年周期で自分のファッションに飽きがくる「飽き性」なだけの女だったのだ。

 

というわけで、毎朝コーディネートを考えるのにワクワクしなくなった私は今、髪を伸ばしはじめ、今までしたことがない「キレイ目大人っぽカジュアル」に挑戦しようとしている。

これまでまったく触れあってきたことのないジャンルなので、正解がわからないし、なおかつ中々ハードルの高いジャンルに挑戦しようとしているなと実感している。
ただ、毎日ファッション系アプリの「wear」を見ながら気に入ったコーディネートに「いいね!」をし、wearで紹介されていた商品をzozotownで検索するのが今、とても楽しい。

たかがファッション、されどファッション。

結局、大学入学時に服飾学科のある大学に進み、2年とはいえファッションについて勉強し、その後ファッションを生涯の生業にしようとしたあの時点で、私の人生はファッションと切っては切り離せないものになっていたのだろう。
きっと私はこれからも、あーだこーだと講釈を垂れながらも、ファッションと共に生きていくのだろうと思う。

もし今、毎朝のコーディネートに心臓が飛び跳ねるほど興奮したり、夜寝る前に「明日何を着よう?」と考えて目がギンギンになって眠れなくることがないのであれば、思い切って、その服、やめてみては?

 

 

とりあえず幸福になるために、明日は2年前に買って一度も履いていなかったパンプスを履いて出かけようと思う…

 

 

 

 

幸福になるために、自分自身の成長を促してみた

悲しいことがあった。

この週末、友達とみんなで仮装してディズニーランドへ行ってきた。
みんなお互い写真をバシャバシャ撮り合っていて、
私もみんなに写真を撮ってもらった。

そして今日、LINE上でみんなで写真の交換をしあっていた。
私は誰の写真も撮っていなかったから、送る写真がなかった。
自分の写真だけは、友達に自分の携帯で撮ってもらっていたので
持っていたが、それ以外の写真が一枚もない。

だから何もせずただ送られてくる写真に対して「ありがとー」と言いながら
ひたすら受け取っていた。

それがよくなかった。


友達の一人が「○○の時の写真がない」と言い出した。
そして私に「持ってない?」と聞かれたので、
「私は自分の写真しか持ってないよ」と答えた。

すると別の友達が「ほかの子の写真は消したってこと?」と聞いてきた。
いやいや、そんなことしないよ!とすぐに返信したが、
つまり私は自分の写真だけ残して自分以外の人が写ってる写真はすぐに消すような人間だと思われているということだ。

とても傷ついたが、普段の自分の行動がもたらした結果なのだろうと思った。
完全に身から出た錆である。

自分はいつもそうで、「自分さえ良ければ」というスタンスで生きている。
自分のスマホの充電が心配だから友達の写真を撮ってあげないし、
「撮ってほしいならそう言えばいいのでは?」と思ってしまう。
人の気持ちを考えて行動したり、相手のことを思いやったり、
人のことを察したり、想像したりすることができない。

周りの人がいつの間にそんなことを習得していたのかわからないが、
私は本当に小さいころから大人になった今でもそれができないのだ。

そして調べてみたら、「アスペルガー症候群」という障害特性と見事に一致した。
これはこういった「人の気持ちを察せれない」といった社会性の障害だけでなく、
「言語コミュニケーション障害」「想像力障害」といった点でも一致した。

そうか、私はアスペルガー症候群なのか。
実際に診断されたわけでも何でもないが、こうやって病名がわかると安心する。

なぜなら「病気」であれば「治療法」や「対処方法」があるからだ。
これが「病気」ではなく「ただの人としての欠陥」であるなら、
その時の悲しみや苦しみは底知れない。
なぜなら「自分は人間の屑だ。人間の成りそこないだ。」と思いながら
生きていかなければいけないからだ。

ともかく私はすでに認知していた「ADHD」と今回新たに自覚した
アスペルガー症候群」という二つの病名を手に入れた。

あとは簡単だ。
ただ、障害と向き合いながら
「病気を治すのではなく、どうしたら病気を持ちながらでも
周りの人と同じように生活できるか」を考えればいい。
周りの人が無意識でもできること、それをしなくても生きていける、ということを
自分はしっかり意識しながらやっていけばいいということだ。

ちなみに「ADHD」を受容した時から、私はメモ魔になった。
人よりも「記憶の器」が小さく、物事をすぐに忘れてしまう。

その代わり自分の興味のあることや過去の出来事に関しては
めちゃくちゃ記憶力がいい。

もしかしたらそのせいで、他のことを記憶するためのキャパシティが狭くなって
しまっているのかもしれない。

だから私は仕事の時はなんでもメモをする。
1秒後にやる仕事や、まさに今からやろうとしている仕事でさえも一旦メモに書く。
そうしないと、「さ、やろう!」と思ってパソコンに向かっても
その次の瞬間に視界に別の興味のあるものが飛び込んできてしまったら
そっちに集中してしまって、今まさにやろうとしていたことを
忘れてしまうからだ。

普通の人ならメモをしなくてもいいことを、私はメモる。
こうすることで普通の人と同じように仕事をすることができる。

これが自分なりの「病名をもらい、向き合う」という方法だ。

というわけで長くなってきたが、今回は「アスペルガー症候群」と向き合うために
まずは自分をよく知らないといけない。

そもそも私は、めちゃくちゃな心配性だ。
人に対する想像力はまったくないくせに、自分に起こる危機や恐怖に対しては
尋常じゃない想像力が働いてしまう。

小学二年生の遠足の日、その日はカンカン照りで、母親が持たせてくれたアルミ製の
水筒は学校につく前に日光で熱くなってしまっていた。
私は「外がこれがけ熱くなっているのだから、中身も熱くなってしまっているのではないか」ととても心配になった。

子供だったので熱いお茶は嫌いだったし、のどが渇いたときに熱くて飲めないんじゃないか、そしたらこんな暑い中、飲み物が飲めなかったら死んじゃうんじゃないかと思った。

そして私は通学路で「足をくじいた」と嘘をついて遠足をサボろうとした。
結果、遠足には行ったし水筒の中身もちゃんと冷たくて安心したのだが
その時の強烈な不安だけは今でもトラウマのようにしっかりと覚えている。

今回のディズニーでもそうだ。
私は「スマホの充電が切れるんじゃないか」
「そしたら帰りの電車が調べられなくて困るのではないか」
「何かあったときに誰とも連絡をとれなくなってしまうんじゃないか」そういった強い不安に駆られていたから、自分のスマホをなるべく稼働させないようにしていた。

つまり私がほかの人を気遣えないのは、
常に「自分の不安から身を守るために必死だから」なのだ。

だから、ほかの人の気持ちを想像したり気遣う余裕がないのだ。

さて、ここからが本題で、じゃあ私はどうすれば他の人と同じように
社会的な生活が送れるのか?

今回だったら、ちゃんとモバイルバッテリーを持っていけばよかったのだ。
そうやって「これがあるから安心」と思えるものを備えていれば
ここまで不安になることもない。
普通の人ならそれをここまで考えなくても自然に出来るのだろうが、
私はここまで考えないとできない。

つまり、私は普段から自分が不安に思うことに対して、普通の人以上に準備して
「安心」を作っておかなければいけないのだ。
それを、意識して行っていけばいいのだ。

 

こうして私はまた少しだけ人間として成長することができた。
普通の人が普通に生活しながら体得していくことを、
自分はこうやって少しづつ頭で理解しながら得とくしていく。

普通の人と自分とのギャップをゆっくり埋めながら、
社会的な生活を送っていく。

本物のADHDアスペルガー症候群の方からは
「そんなくらいで障害名乗るな。お前のなんかただの甘えだ。一緒にするな。」
と怒られてしまうかもしれないが、
これが私が少しでも前向きに生きるための手段なのでどうかお目こぼしいただきたい。

とりあえず幸せになるために、たくさんの荷物が背負える
屈強な肉体を手に入れようと思う…。

 

幸福になるために、彼氏をつくらないという選択もある

彼氏を作らないほうが豊かな人生を歩めるというパターンもある。
そして、自分はもしかしたらそちら側の人間なのかもしれない。

自分は好きなものや好きな人ができると、もうそれ以外何も見えなくなる。
すべての時間をそれに費やしたくなってしまい、
行動も頭の中もそれでいっぱいになる。

好きな人や彼氏ができてしまえば、四六時中その人のことを
考えてしまうだろうし、毎日でも会いたい。

だから、仕事も手につかない。趣味もできない。
友達付き合いも家族付き合いも悪くなって二人だけの世界に没頭するだろう。

実際、前に彼氏的な何かができたときはまったくもってその通りになった。

彼氏がいるという状態は今よりも充実しているように見えるかもしれないが
私にとってそれは本当に充実とは言えないだろう。

 

今、一人の時間で映画を見たり、ヨガをしたり、整体に行ったり。
会社の後輩や同期とごはんに行ったり、友達とスケボーしたり遊んだり
家族との時間を大切にできたりしている方が、彼氏を作ってその人だけに
没頭するよりよっぽど豊かで充実した人生を送れるのではないかと思う。

だから彼氏を作ったり恋をすることが怖い。
人を好きになってしまうのが怖い。
せっかく出来た大切な人を「彼氏」なんていう窮屈な役割に
当てはめてしまうことが何より怖い。

 

だから私は幸せになるために、無理に彼氏を作ったりせず、
しばらくは今ある幸せを大切にしようと思う。

 

幸福になるために、悲しみを吐露させてください

生理で情緒不安定になっているので、どうか今日はひたすら悲しみを吐露させてほしい。
私には何もない。
ブログの説明欄にも書いてある通り、趣味もない、特技もない。
何も、何もないのだ。
仕事で悲しいことがあった。
悲しくて悲しくてどうしようもなくて、その気持ちを吐き出したくて。
絵を描こうと思った。
涙に濡れる美少年と、たくさんの花を描きたいと思った。
でも私には画力がない。
頭の中に、こんな絵を描きたいというイメージはしっかりとできているのに、どうしてかそれを表現できない。
歌を歌おうと思った。
大きな声で、悲しみを叫ぶような歌を歌いたいと思った。
だけど私には歌唱力がない。
こんな風に歌いたいというイメージはしっかりとできているのに、どうしてかそれを表現できない。
ピアノを弾きたいと思った。
だけど私はピアノが弾けない。もちろんそんなもの持ってない。
踊りたいと思った。
だけど私はダンスの経験がない。
写真を撮りたいと思った。
悲しみに暮れる自分の姿を写真に収めようと思った。
だけど私には美貌がない。
誰かと話したいと思った。
でも私には用もないのに電話できる相手なんていない。

何もない。

私には何もないのだ。

なぜ何もないのか。
それは何もしてこなかったからだ。

絵が描ける人は、絵を描く練習をしてきた。
ピアノが弾ける人は、ピアノを弾く練習をしてきた。
みんな、自分のやりたいことを、きっちりとやってきたから、出来るのだ。

私には、それがなかった。
だから私には何もないのだ。

でもだからと言って、明日から絵の練習をするかというと私はきっとしないだろう。
そうやって今まで、何もせずに生きてきたのだから。
なぜ、なにもやってこなかったのか。
それは、何もしなくても、なんとなくやってこれたからだ。
どんなことだって、やればそこそこはできる。
絵もそれなりには描けるし、歌もそれなりに歌える。
神様は私に「いろんなことをそれなりに器用にやる」能力を与えてくれた。
その代わりに、試練を与えてくれなかった。
人は試練を乗り越えなければ成長しない。
だから私は、生まれてこの方、少しも成長しないままに24年間も生きてきてしまったのだ。

あぁ、悲しい。
どうしようもなく悲しい。

せめて私に、凶暴なまでの美しさがあれば。
他に何もなくたって、それだけで生きて行けたのに。

悲しい、悲しい、悲しい。
ひたすらに、ただただ、悲しいのだ。

何も頑張ってこなかったから、魅力がない。
だから、私のことを誰も愛してくれない。
そして、私も誰のことも愛することができない。

深い沼に足を取られたような気がして、身動きが取れなくてひたすら苦しい。
誰か私を認めて下さい。
ほめてください。
頼ってください。
あなたの世界に私を存在させてください。

社会人になって、人から褒められることなんてとんとなくなってしまった。
そうすると自己肯定感が低くなり、自分を大事にできなくなって、甘い言葉だけをくれる変な男に引っかかって、何もかも失って、さらに自信を失う。

そうやって少しづつむしばまれながら、それでも私たちは生きていかなければならない。
それが、何より悲しいのです。

誰か、ほんとうに、お願いだから、ほめてください。

 

とりあえず幸福になるために、明日も私は仕事に行こうと思う。

幸福になるために、手相を見てもらった

はじめましての人ばかりが集まる社内のMTGが終わり、そのまま懇親会の会場へと移動した。
人見知りで知らない人と話すのが苦手な私は、できるだけ年の離れていなそうな女性たちの輪の中に入る。

前回の記事でジェンダー感について少し触れたが、やはり性別というのは不思議なもので、女性というだけである程度会話ができる。
仕事の話、恋愛の話、趣味の話、田中圭の話…

そのうちの一人が、御朱印集めにハマっているという話から、話題はスピリチュアルな方向へと進んでいく。
すると、一人の女性が手相占いにハマった時期があり、人の手相が見れると言い出した。
女性陣の盛り上がりはここで最高潮に達する。
次々に自分の両手を差し出し、手相を見てもらう。
もちろん私も、自分の両掌を彼女に見せた。

「えっ」という驚きの声とともに、彼女が目をむいた。

「大人の女の人でこんな手してる人初めて見た…。」

どういうことか。

「あなた、悩み何もないでしょ?」

 

 

聞くところによると、私の手相は成人女性では考えられないほどシンプルらしい。
考えていることや悩みがその人の手相を形成しているらしく、私にはその複雑な手相が一本もない。
たとえるなら、赤ちゃんの手とほぼ同じ、らしい。
なんと。

特に脳のつくりは男性のそれそのもので、悩みは何もない。
結婚も恋人も望んでいない、ものの見事に生命線がズバンと存在している。

なんと…

確かに言われてみれば、悩みらしい悩みがない。
ここ2年くらい、本気で何も悩みがなくただただ楽しくて自堕落で楽な人生を歩んでいる。
彼氏もいないし、好きな人もいないし、仕事は順風満帆、友達は中高大の同級生たちのみ、家族関係も良好…。

ふと、このブログタイトルを見返す。
うん…もしかしたら私、すでにめちゃくちゃ幸せかもしれない。

とりあえず明日も幸福であるために、今日はもう寝ようと思う。